つまり、貧乏性

 9月に読んで感銘を受けたものの、その後入院したりして深く考える機会を逃していましたが、最近真面目にiwatamの何でもコラム|意見を述べるということを何度も読んでいます。だからって自分の文章に何かが反映されていることはたぶん、無い。しかし、心意気としては一般化を考えているつもりです。論理学で言うところの量化ですな。
 書くものは変わらないだろうけれど、なんでついったーが苦手なのかについてまた考えが変わったというかまとまったので書いてみます。これをついったーに書くと顰蹙ものの状態になるので、話が繋がりませんがついったーには書きません。
 でも参考までに、私がついったーに書いた内容をそのまま以下に並べておきます。

職場で「M48」か「M4B」か揉めた。字が下手なのが悪い。いや、下手ではないし乱雑でも汚くも無かった。ただ、紛らわしい形だっただけ。それは下手と表現するのだろうか。わからない。とにかく迷惑した。
この場合の「わからない」は「解らない」なのか「判らない」なのか判断できなかったので平仮名としておく。やはり私には140文字は少なすぎるようだ。修行が足りないと言われればそれまでだが……可能な補足は出来る限りしておきたいと考えてしまう。
以上のように細かいツイートにすれば情報量を多くすることは可能だが、短時間に同一人物とそれに付随するツイートが大量に現れるのは実に不愉快な現象だと先日身をもって知ったので(理事長は素晴らしい反面教師である)、もうやらない。今日のこれは実験である。
文章が常体なのも文字数を節約する実験だが、レポートでも無いのに他人が読むことを前提とした文章が常体なのは落ち着かない。個人的には300文字くらいがストレス無くある程度を書ける文字数だと感じる。
もっとも、補足が無くいろんな解釈が出来るツイートにならざるを得ないからこそ、返信がされたり話が広がったりするのではないかと考えられるので、140文字は適当なのだろう。行が増えると読みにくいし。
特集がされているらしい「週刊アスキー」を今度読んでみよう。と、ここまでで恐らく500文字を超えているのだがどうかな?

 で、ここに友人(と私は思っているが彼の認識は知らない)から、個人的には31文字でも問題なし。1600文字ならそれなりに推敲する。文字数などそんなレベル。という意見が届き、私がちょいとつぶやくだけなのに、140に合わせてそれなりに推敲して言葉を選び表現を工夫する、この時間と手間がかなりもったいないと私は感じるので、書きやすい文字数だとその無駄がないのにな、と思うと述べたところでこの話はおしまい。別に頑張って議論したいことでもないし、議論したからどうということでもないし。

 やっと本題です。
 ここで私が前述した記事の内容をまとめたりすると、ご本人の主張と全然違ってしまう可能性があるのでそれはせず、9月に読んだときには思わなかった「なるほどついったーは意見を述べる対話ではないのだな、だから私には面白くないのだな」と思ったことについて述べます。
 他人の会話を盗み聞くのは、まあまあ面白い。電車でとか。以前別の日記に書いた「まりこって彼氏何人いるの?」「ふたりー」「ミホは?」「私もふたりー」「かなちゃん、三人らしいよ」「へぇー」という電車内での若い女性3人の会話は度肝を抜かれました。もっとこそこそしたまえ。面白かったけど。
 しかし基本的には他人の会話はいわゆる内輪ネタばかりで、例え真剣な悩み相談でも自分と関係なければ正直どんな深刻な話でも「どうでもいい」ものです。知人が「子どものいる女って子どもの話しかしねえの、そういう女ほどつまらん女はいねえよな」と言っていました。つまり彼は子持ちのくせに子どもに興味が無いのでしょう。ハイチの地震について、地震の多いお国柄ですからなんとなく同情できても、ザンビアの内戦については、内戦そのものがピンとこないお国柄ですからなんとも同情しにくいのと同じようなものです。
 ついったーの140文字は、私の能力の問題上、その文字数で「意見」として客観化し一般化し誤解の少ない言葉や表現を吟味してツイートとして仕上げるのは、時間と手間がやたらとかかるため、その労力をかけるだけの価値や対価を感じられないものです。だからつぶやくことが非常に難しい。フォローしている友人のツイートに対する返信はわりとあっさり出来ますが、これは「会話」と同じようなものだからです。実際に顔を合わせて話したことのある相手ならなおさら、普通に喋るように返信出来ます。でも、ただつぶやくのは本当に難しい。
 1日1クリックハイチ募金のツイートのために、簡潔で明瞭な表現が思い浮かぶとメモしておかねばと焦るほどです。思いついたことをつぶやくはずのものに対してメモまで取るなんて本末転倒で実にくだらない。
 しかし読んでもつまらない「他人の会話」などをわざわざ便宜上とはいえ世界中に配信するのはもっと意義と価値を感じない。誰かに対する返信は、フォローしている仲間内だけだと思うから返信するものの、これをまったくの他人が見たら、読んだ手間と時間を返せと思う程度のものです。それは自覚している。
 そこへくると鳩山さんのツイートは非常に有用です。もちろん、彼が主張したいこと、知らせたいことだけが選択されて載せられているわけですが、彼が隠したいことも、彼のツイートの中の単語を検索したり、リンクされている民主党や首相官邸のサイトからあちこちに移動することによって知ることが出来ます。本当に彼が書いているのかどうかは別として、鳩山さんのツイートは簡潔で過不足無く「お知らせ」としての機能を果たしていると言えます。
 ウェブの基本的な価値は誰でも気軽に発信できることです。ただ、それは個人的なやりとりではなく、考えを述べたり賛同を募ったり自己を表現したりすることによって生産的な活動となるところに価値があるのではないでしょうか。ついったーは、文字数が少ないだけに、非常に奥深いひとことが生まれる場所ではありますが、ほとんどが「だからなんだ」に集約される場所だと感じます。何故ならそこに深く意見交換を行うだけの余裕が無いから。
 また、多くのひとがどんなことに興味を持っているのか分かるというの利点も、それは「みんながやっているからやらなきゃ」という無言の圧力に繋がっていくように思えます。制服のスカートは膝上でないとそのほうが変、みたいな。膝下が決まりなのに。そして、友人知人とのやりとりが多ければ多いほど、公開しているにも関わらず閉鎖的となり、閉鎖的なのに集団の持つ力はそのままで、それは素直に恐ろしい。ますます公開することに意味が感じられなくなるでしょう。内輪の掲示板でじゅうぶんです。
 ついったーは、友人知人とのやりとりを楽しむには利用しやすいツールですが、友人知人との個人的なやりとりを公開する必要があるのかという点が大きな疑問です。個人的なやりとりの枠から出るには文字数制限が厳しい。また情報としてを利用するには、情報量が膨大すぎるでしょう。しかも全体としては膨大すぎるわりと、ひとつひとつのツイートは文字数が少ない≒情報量が少ないため参考になりにくいと考えられます。
 それならじゃあ例えばこのブログを公開している意味と価値はあるのか? どこかの誰かの参考になったら良いなという心意気に基づき、行ったコンサートや博物館、鑑賞した映画や絵画を記事として記述しているので、どこかの誰かの参考になるかもしれないというのが公開している意味と価値だと考えます。
 長々述べましたが、ついったーはブログやHTMLで体裁を整えたウェブサイトに比べて、「意見」や「主義主張」が感じられにくく「情報」としても中途半端であるために、「だからなんだ」となってしまいどうにも肯定的に捉えられません。近頃は慣れたのか愛着がわいたのか、否定的というほど否定的な感情は無いのですけど、でももうちょっと知識に繋がるとかメリットを感じられる文章を読みたいよな、せっかく読むなら、という気持ちがなくなりません。要するに、貧乏性だからついったーに不満を感じる、もっとおおらかなら不満は感じないのではないか、というのが今のところの結論です。

 続きは超自分メモ。今日彼氏からもらった本を、私の蔵書じゃないぜと未来の私へ向けて主張します。しかしこれもまた、ああ世の中にはこういう本があるのね、とどこかの誰かの参考になったら一石二鳥だなという下心があります。

 正直ていのいい処分だと思う。もしくは、本棚代わりにされているだけ。せっかくだからそのうち読むかもしれないし、読まないかもしれない。

2010.02.06 Saturday 22:47| comments (0) | trackbacks (0) |