御手洗潔氏還暦
いい加減意地を張るのは止めてヨリを戻したら、と毛利小五郎・妃英理ツンデレ夫婦に対して言いたくなるのと同じくらい同じことを言いたくなる御手洗潔・石岡和己コンビの、探偵さんが27日めでたく還暦を迎えます。スウェーデンでハインリッヒがお節介をしているだろうと勝手に妄想しております。還暦なんてどうでも良いと本人はお考えでしょうな。
どこかで確か作者本人が匂わせていたような記憶があるような無いような、御手洗潔は島田氏の理想像であり石岡和己は現実であるという話がありまして、御手洗氏もやっぱりクイーンに連なる作者と同じ名前の探偵という流れのひとつなんですよね。島田氏と御手洗さんは同い年だし、島田氏も石岡さんも武蔵美卒だし。そして、御手洗さんにも石岡さんにも自分を投影している三位一体の危うい均衡があるわけです。御手洗さんと石岡さんが別居に至ったのは、このバランスに耐えがたくなったからではないのかな。石岡さんが御手洗さんを頼りすぎる、依存し始めていたのは要するに島田氏が理想像と現実である御手洗氏と石岡氏を共存させられなくなったからではないのかな。それで結局理想と現実でぐだぐだしているように感じます。
『Yの悲劇』がまだ途中なのですが、なんでレーン氏はレーン氏で、ロス氏じゃないんだろうと思ったら、作者と同じ名前の登場人物を出すことの弊害を考え始めてしまって、途中で放り投げて作家アリスを読み始めるという状況になりました。いかんよ横溝正史を28日に向けて読まねばならないのにと思いつつ。
作家アリスの物語は学生アリスが書いているという前提をきちんと認識しながら読むとまた面白いなと思いながら読み返しました。学生アリスと作家アリスは、無いもの強請り的な交差しない二本立てであるから、さらにその上にほんとに作者として君臨する有栖川有栖氏そのものは作品に投影されにくくなっているのではないかと感じます。鶏と卵っつーか入れ子の構造により、作家アリスを読むときはそれを書いている学生のアリスを、学生アリスを読むときはそれを書いている作家アリスを、想像しながら読むと一粒で三度美味しい。そんなややこしいことを考えずに読んでも普通に面白いですけど。
でも御手洗さんは御手洗さんだけが絶対的な存在になっていて、御手洗さんなんだけど例えば『秋好英明事件』みたいな作者の主張を御手洗さんがずっと喋っている、そういう状態が多くなっています。島田氏が理想像を追いかけすぎて現実である石岡さんが置いてきぼりになりついていけなくて御手洗さんがイライラする、『最後の一球』なんて八つ当たりじゃないかという感じ、それはもう自分自身への攻撃のようです。御手洗さん関係だけではなくて、あっちもこっちも『天に昇った男』みたいなアレになっていて、そういうのは石岡さん向きじゃないというか。教授になった御手洗さんはとたんに説教くさいところが出てきたり研究以外は知ったこっちゃ無いぜみたいな、宮田少年を思って夜中に佇んでいた御手洗さんはどこへ行ってしまったのと思うほどです。永遠の34歳である准教授と違って、年月は確実に重ねられ理想像はますます理想像になり、「ぼくはスーパーマンじゃない」と言っていたのにスーパーマンに近づいて、そのぶん現実、つまり石岡さんとは乖離していく、そういう御手洗さんの寂しい後姿が見える気がします。
あー御手洗さんを語ろうとするとどうにも島田氏語りになっていく。これも三位一体の危うさのなせる技かね。
ダレン・シャン? これは微妙。法月さんは時々作者の投影が強くてうわってなる。
ところで、先日図書館で読んでみたミステリー・ランドの島田荘司『透明人間の納屋』は、子ども向けにしちゃ重たいなと思いましたが、子ども向けだからかステキな外国の話でだいたいのカラクリがあっさりと分かってしまうという、どっちつかずの本でした。がっかりして良いのか、わーいトリック見抜いたよーとはしゃげば良いのか。という感想をそういえば「クロアチア人の手」でも持ったことを思い出しました。
妹が、ねんきん特別便に記入をしながら、「私の年金記録には問題ないがお前らには問題あるんだよ」と恐らく社会保険庁に向かって、ぼやいておりました。