量子を探偵する
昼休みと通勤電車を利用して『探偵小説の社会学』を挫折しそうになりながら読んでいます。引用される探偵小説は既読か、既読でなくても内容を知っているものばかりなので良いのですが、社会学的にどうとか文学的にどうとか、そういうのがちっともさっぱりついていけません。フーコーって、振り子の実験したひとでしょ? みたいなすれ違いっぷりです。
畑違いの本を読むと、当たり前の知識とされていることをなーんにも知らなくてものすごくつっかえてしまうなと痛感しました。やや物理めいた本だと一般向けでも何食わぬ顔して波動方程式が出てきますけど、そういう感じ。そこで時間を含まないシュレーディンガーだなとなるか、プランク定数って何ですかとなるかで、読む態度が変わるでしょう、たぶん。
相変わらず社会学そのものが何か分かってないまま読んでいるのですが、ちょっと思ったことがあるので述べてみます。あの、とんでもなく見当違いだと思うのですけど、社会学って量子力学と似てませんか?
人間の集団を観察しているというのが、量子を観測しているのと似ているように感じます。社会学は、統計的手法を使ったりしてひとりひとりの動きではなくて全体を捉えようとしているみたいなところや、個別事例から全体を演繹していく感じが、ひとつの波動関数で状態を記述するのと似ているんじゃないかなーと思うんですよ。変数には「時代」が入る。そんで現象の要因を探るわけです。個性は見ないことにして確率分布により集団の特性を数学的に論じると社会学なんじゃないかというのが私なりの解釈です。でもものすごく違うんだろうな。
ただそうすると探偵はその量子を観測することになるわけです。観測するまで犯人か犯人じゃないかが重なり合った状態で存在し、そんでいずれかの状態に収縮する、ってのは推理の意味が無いねーダメだねー。でもそのひとが犯罪を犯すかどうか魔が差しちゃうその瞬間までは、此岸と彼岸が重なり合って存在しているのかもしれません。
パスポートが期限切れになるのをすっかり忘れていて、仕事が非常に忙しくなってきたのに、半休貰うことにしました。東京都は19時までパスポートセンターが開いているのに、神奈川は1645で終わりってどういうことだ。せめて横浜本局だけでも遅くまで開いていれば良いのに。我が家の最寄の県央を開けとけとは言わないから。
べつに近々海外へ行くという予定もまったくなく、9年ぶりに使った今年のクリスマスで切れるパスポート以下の使用頻度かもしれないですが、あるのと無いのとではやはり身軽さが違うし、更新のほうが手続きが楽なので所持し続けておきたいというそれだけのわがままで、クソ忙しい最中に仕事を休むのは少々気が引けます。でも13も14も仕事したし21はマラソンに行くけど22と23は仕事行くんだからちょっとくらい休憩したっていいじゃん、とも思います。