10連休九日目
今日も掃除に洗濯に読書と快適な一日でしたが、ただひとつ、犬の散歩だけが納得いきません。明後日からはまた5時に起きて会社かと思うと重たいため息が出てしまうものの、もう犬の散歩をしなくていいと思うと明日からでも仕事に行きたい気分になります。本日も一時間ばかり歩き回りました。天気は小雨でしたが季節の花が咲いていたり知らない路地に入り込んでみたり、なのにどうしてこんなにも不愉快なのか。犬が一緒だからです。分かってます。
ひとりで散歩ならもっと心が弾むのにと思うと殺意が芽生えます。ああ、あの車の通りが多いあの道へ出て、小田急の線路沿いで、東名の橋の上で、うっかりリードを放しちゃえば良いんだわ。犬の散歩が明日で終わりでたいへん結構です。たったの十日を我慢出来なさそうというのは実は意外だったので、少し悔しいです。十日くらい犬の相手を出来ると高をくくってました。でも実験の結果、犬と嫌々でもそれなりに気持ちよく散歩できるのは七日が限度だと分かりました。彼氏と散歩をしていても、話しかけてくる彼が鬱陶しくなる私が、犬となんて所詮は無理な話だったのです。散歩は一人に限る。
この連休で自らを見つめ直すことが出来たのは、不本意ながら犬のおかげですが、有意義であったと言えましょう。明日は少々感謝の気持ちを持って犬と出かけることにします。そうとでも思わないと本当に殺しかねない。やってられん。もう嫌だ。
連休中は久々に料理をしようかと思って、でも結局やっていません。この調子だと明日もやらないだろうから、私が次に料理をしようかと思い立つのはまた数年後でしょう。前回料理をしたのはいつだったか……確か、大学在学中からその後数年付き合っていた男が私の手料理をものすごく食べたがって、いつも彼は私が遊びに行くとご飯を出してくれるのに、半年くらいうるさく言われて閉口したので仕方なく我が家へ呼び、オムライスを作ったときかと思われます。あれは私が24のときだったか。そのとき私が作ったものが彼の口に大いに合わなかったようで、その後ピタリと「手料理が食べたい」コールは止みました。やっとおとなしくなった、とホッとしたのを覚えています。
なんだろう、あれは、理論より実践、というのを実感した印象深い出来事です。何度私が「料理には興味が無いし、作ろうと思えば作れるけれど私は自分の好みのものしか作らないから、他人が食べて満足できると思えない」と言っても譲らなかった男が、それっきり料理の話を一度も出さなくなったのだから。論破するより一度食べさせるほうが雄弁というのは、少々口惜しいものでした。しかしあんなに簡単に諦めるなら、最初の数日で作ってやれば良かったです。
ところで、あのとき私は彼に「味見した?」と訊かれ「途中ではしたが、最終的にはしていない」と答えたら「なんで味見しないの?」と怒られたので「最終的に味見してもそれはもう完成していて対処出来無いから必要ない。不味くたって後は食べるだけなんだから」と返したら彼は「もういいよ」と言ってとても呆れていました。最終的な味見をしないのはそんなに問題なのでしょうか。後でそれを食べるのに。
彼の口には合わなかったらしいオムライスですが、私はまあまあだと思って食べてました。妹が文句をつけていたパサパサのご飯も、焦げている卵も、余人には薄すぎる味付けも、全て私の好みに合わせたからそうなっていたのです。柔らかく炊いた米は不味い。芯が残っているやつが好き。とろりとした卵なんて許せない。むしろ焦げているくらいが美味い。オムライスはケチャップの味がするより鶏肉の味が残っているくらいのほうが良い。ブラックペッパーで充分だ。それと、温かい料理より多少冷めているほうが美味しいと思う。冷蔵庫から出したご飯と炊きたてご飯だったら私は迷わず冷蔵庫派です。
技術的に、例えば桂剥きが上手になりたいとかは思うし、黙々と蕗の筋を取るのはなかなか面白いと思うので、作業としてはそんなに嫌いじゃありません。炊飯器は苦手ですが飯盒で米を炊くのは自信がある。しかしそれでも私が料理を好まないのは、食べる相手によって評価が変わる曖昧さが原因かと思います。