うさこはうさぎ
昨日話題にした足立玩具店、閉店を知らなかった職場の横浜市民が口々に思い出を語り始め、愛されて○十年とかそういうキャッチコピーが浮かびました。
以下、職場での会話。
「ミッフィのぬいぐるみ、売り切れてて一匹もいなかったんですよ。超残念!」
「え、ミッフィって何匹って数えるの?」
「あ、違う、ウサギだから『羽』ですね」
「いやそうじゃなくて……」
「???」
二足歩行のキャラクターは、「一人」「二人」という数え方で良いのでは、と提案されました。
先日久々に「何を言っても無駄」という気分を味わいました。私は基本的には何事も「話せばわかる(犬養毅)」と思っているのですが、さじを投げたい衝動に駆られています。上記の「わかる」は「共通認識を持つ」「同意はしないが相手の主張内容を理解する」という意味です。意見交換をしても、その「わかる」ところに行き着かないので限界を感じたのです。
それで何故、話が噛み合わないのかということを考えました。読売新聞の「人生案内」あった相談がなかなか示唆的だったのでそこから考えたことを述べてみます。
数ヶ月前、女子高校生から「医者になりたいと考えているが他人に共感することが難しい、友人たちが気軽に『分かる分かる』と言うので腹が立つ、そんな簡単に分かるものかと思う、こんな私が医者になれるのか」という相談がありました。なんとも真面目な少女です。
その数日前に「夫がスポーツクラブに通い始め、新しく知り合った女性と楽しそうにしている、私の相手はしてくれない、不実だと責めても『その女性の夫とも知りあいだし関係は良好だから問題ない』と反論される、どうすべきか」という相談がありました。熟年離婚とは無縁そうな、夫大好き妻のようです。
面白いと思ったのは、他人の悩みを面白いなどと表現して失礼だとは思いますが、女子高生は「他人が簡単に共感を示すことが腹立たしい」と悩んでおり、60代女性の悩みが「夫が共感を示してくれない」と悩んでいる点です。共感を示しても示さなくても嫌がられるという不思議が非常に興味深い。
もちろん、他人に共感するというのは人間として必要な能力です。ただ、断片的な情報であっさり共感できるタイプと、総合的に俯瞰できるまで共感できない(というより、断片的な情報で共感しては失礼だと認識している)タイプがいるだけです。
一方からの情報しか得られない状態で共感を求めるひとがいる場合、ここで共感の態度を見せると件の女子高生なら眉をひそめるに違いありません。しかし雰囲気的に件の60代女性は、そこで共感しない女子高生に対して眉をひそめそうです。私はどちらかというと女子高生に賛成。双方の意見を聞かないうちに判断を下せるわけが無いと思うので。
「共感」出来なくても「理解」出来ることは多い。どんな相手にもまずは「理解」を求め、付加として「共感」を求めるほうが結果的にはたやすく共感を得られるのではないでしょうか。
ってもその「理解」にすら至らないから私は頭を抱えているんだけど。というわけでいまだ解決策は思いつきません。共感が得られない相手とは意見交換も出来ないなんてことがあるのなら、それはなんかもう、絶望した! としか言いようがありません。しかし「わかる」ための努力を放棄したくはないのです。明らかに無駄っぽくても。
さて、お悩みの60代女性には、あなたもジムへ一緒に通っていはいかがですか、というアドバイスがされていました。あの相談が「夫のジム通いを止めさせたいがどうしたら良いか」を遠まわしに表現したものだったとしたら、相談者はガッカリしたことでしょう。たやすく共感を求めるひとは、そのくせハッキリそれを要求してこない傾向にあるという偏見が私にはあります。