初場所中日向上面
二人マスか椅子席Aの正面前のほうを狙っていたのですが、残念ながら向正面の真ん中ら辺の列かなり東側三人マスになりました。ああ悔しい。
今回は相撲協会に電話せず、両国に直接行くこともせず、チケットぴあを利用してみました。ネット決済のカードが使えずコンビニ支払いにしたら月曜日までって……厳しい。何故カードが使えなかったかというと、マスと椅子と両方をほぼ同時進行で手配していたら不正使用を疑われたようです。カード会社から確認の連絡が来ちゃいました。うん、勉強になった。
公式サイトを見る限り、現在チケット手配は相撲協会に直接電話ではなくてお茶屋さんかプレイガイドのようです。もう、あのチープな単音のミッキーマウスマーチ(保留音)を聞かされることも無いのかと思うと寂しいものです。のんきな応対のおじさんとの問答も出来ないわけです。「東側だと朝青龍は背中しか見えませんがよろしいですか」なんて、ぴあの画面は言ってくれない。2005.12.09の日記で馬鹿にしたミッキーマウスマーチが恋しいです。
一坪ってどんくらいの広さだっけ? と中学校の理科の教科書の一番後ろを確認してしまいました。奈々子の家はそう広くない。敷地百八十坪くらいである。
横溝正史『夜の黒豹』春陽文庫p.344 l.16
成城の邸宅は百八十坪で「そう広くない」のでしょうか。三十坪あるかないかの我が家は離れひとつぶんにもならないんだろうね……我が家が庶民レベルなのかもっと底辺なのか私には分かりませんが。落ち込みたくないから調査もしませんが。
ブログパーツの「今読んでいる本」が『海と毒薬』のときはちょっとカッコイイじゃない私と思っていましたが、「読み終わった本」にミステリが並びまくっている現状で『探偵小説の社会学』が出てきてしまっているのはなんだかアイタタタという気がします。この本、ここ半年聴きに行っていたワタリウム美術館の講演会の先生が著者でして、お前そういうのは事前に読んでおけよとツッコミが予想されるところです。でもね、これ先に読んで講演の内容がほとんど同じだったら悔しいじゃないですか。そう思ったら読めなかったですよ、目次しか。このたびめでたく講演がすべて終わりましたので、改めて図書館から借りてきた次第です。
ついでにというかしばらく離れていたファンタージエンもやっと三作目を読み始めました。これは一作目が出たときは刊行を追いかけようと思っていたのに、私が大学の課題に追われてしまったために全然読めてなかったというダメな思い出の詰まっているシリーズです。二作目は、雰囲気違ったなーラルフ・イーザウ氏じゃないかならかなー『はてしない物語』から離れすぎたのかなーとちょいと違和感があったのですが、何のことは無い、訳者が私の慣れた酒寄進一氏ではなかったためのようです。『ネシャン・サーガ』でこのひとの文章苦手と思ったはずの酒寄氏の訳が『盗まれた記憶の博物館』で何が苦手か具体的になり、『暁の円卓』では、ほーらまたここでこういう表現だよーこれが嫌なんだーと笑えるほどになり、最早酒寄氏以外の訳では現代ドイツ児童文学は読めない気分になっているようです。だって『パーラ』は物足りなかったもん。イーザウ氏の書き方ではなくて酒寄氏の文章が私の何かを刺激するんだなと『パーラ』で実感しました。
ちょっと戻って『探偵小説の社会学』について触れてみたいと思います。これの第一章が「猫と探偵と二十世紀」でして、ここで夏目漱石の探偵嫌いと猫に関してが述べられているのですが、6月に目次を読んだときは、そう言えば中禅寺家は猫がいる(「探偵」は榎木津だが役割としての「探偵」は中禅寺である)し、火村先生は雨の日に拾ってきちゃうし、ホームズは三毛猫だし、猫探偵正太郎とか猫探偵カルーソーとかいるよね読んだこと無いけど、と思ったのに8月にはすっかり忘れてフォンヴォルテール卿の「こねこたーん」の不気味さについて頭を悩ませてみたりしてました。夏目漱石が思いっきり職業差別をして『我輩は猫である』でおよそ世の中に何が賤しい家業だと云って探偵と高利貸ほど下等な職はない
とまで言い切っているのもすっかり忘れてました。
盗まれなくても記憶の不確かさには自信があります。これを超前向き解釈すると、同じ本を何度も新鮮な気持ちで読めるとか10年以上同じ電車を利用しているのに飽きないとかそういうことになります。そんなわけで、『探偵小説の社会学』で引用されているホームズとワトスンの会話なんか、こんなのあったかなぁといちいち原典の確認が必要です。そんで読んじゃう。そして新しく楽しめる。得な性分だ。それはさておき、社会学として探偵小説を読むのはやっぱり目の付け所が違うんだなーと感じます。デュパンとホームズの思想的な繋がりというか「探偵」に対する態度についてを彼らの言動から説明をつけたり、戦争が作品に与える影響を探ったりしていて、ほんとにそんなデカイ犬がいるのかと図鑑を調べた私とは全然違うのです。
私はどうしてもそのトリックやロジックは成立するのかという点を気にしてしまうし、登場人物の他愛無い会話からにじみ出る作者の意図や思想を追ってしまいます。でも社会学だと、私はいまだに社会学というものが何なのかよく分かってないのですが、反映される世相とか犯罪の変遷とか論じることになるみたいです。だから私にとっては何気ない一文について延々と語られている。何かのあとがきで島田荘司氏が「変わった館の特徴を用いたトリックで、そんな建物は建築基準法があるから無理だろうというのはナンセンス、そこは物語として割り切るべきだ」という主旨のことを書いていて、同じようにその点を知らん顔していても「何故そのトリックが生まれたか」「何故この犯罪が行われたか」という点については物語として割り切らずツッコミまくっているのが面白かったです。作家はすげえトリック思いついたぜ! と勢いで書いているかもしれないのに、学者は時代背景をそこに見るの。書かれた犯罪が、その時代その場所で生まれた理由を考えるの。ある意味トリックの成否を検証するよりもずっと怖い重箱の隅です。
まだざっと斜め読みしただけですけど、あの先生はこうやって探偵小説に萌えに萌えて来年還暦なんだ……と萌えってスゴイなと思いました。
彼氏がついに『沈黙の艦隊』を読みました。私が8巻以降は初版で揃えているモーニングKC全32巻を貸したのです。どこまで読んだか途中経過を何度かメールで連絡をくれました。海江田と深町がすれ違ったとか、実弾だとか、北極海は寒そうだとか、ハンバーガー食べてたとか、命がけの速水を深町はポイしたとか端的に、それでここらへんを読んでいるのだろうと思い当たるシーンの台詞をいくつか返信していたら、本当にマニアだねと言われました。
記憶力には全然自信が無いですが、やはり好きなもののことは覚えているようです。「東京湾から逃げた」というメールの返信として「きさまに信頼されてもありがたくもなんともねえー!」「深町きさまの任務は終わりだ」「船を失う痛みは同じ船乗りとして理解しているつもりだ」「つまり魚雷が残っているということだ」「それだけあればじゅうぶんだ」「見てろヘドロをなめさせてやる」は確かにマニアだと後から思いました。そのときは海江田の上目遣いや深町の顎を思い出してうっとりしていたので気づきませんでした。
聞くところによると映画「チームバチスタの栄光」で医者が『沈黙の艦隊』を持っていたらしいんですけど本当ですか? それを知っていたら劇場に行ったのに! 公開しているとき、彼氏がヒマだと喚くので映画でも行くかと「チームバチスタの栄光」を挙げたら「興味ない」と言われ私も特に観たいわけではなかったので行かなかったのです。あー、観ておくんだった。