素敵が礼儀
昨日、お茶席のご婦人は何を見ても「素敵」と言うのは女子高生の「カワイイ」と同じだと書きましたが、もしかしたらそれもまた
「作法の一種」なのではないかと思い至りました。主査みたいなひとに器や掛け軸を自慢されたら「素敵ですね」と返事するのが礼儀、という可能性です。それなら私が「渋くてカッコいい」とか「クールでイカしている」とか感想を述べたらものすごく変な顔をされたのも頷けるわけです。
実際のところどうか知りませんけど。
マーロウは一人称なのに、最後のほうまでからくりが分からないのが面白いと思います。探偵役(探偵そのものだが)の目線だと、例えば榎木津さんの一人称でずっと話が進んだとしたら、いや彼の説明じゃちっとも訳が分からないような気もするので良い例じゃ無いね、御手洗さん一人称の場合で考えましょう、『ネジ式ザゼツキー』はわりと最初のほうからテンポ良くあちこち説明がついていきます。次々と、え、じゃあそれがこうならこっちは? というふうに分からないところが新たに出てくるのですけど、それをハインリッヒがいちいち疑問をぶつけてくるので話が進みます。これが無いと榎木津さんと同じになってしまう。
関口さんや石岡さんだと、探偵役は分かっているのに記述者は分かっていない、という状態で話が進んでいくので最後で一気に解決するわけです。エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』から始まるワトスンさんタイプはこれですな。
ほかにも記述者が誰だが分からないものもありますが、ミス・マープルのような安楽椅子タイプの探偵も、メグレ警視や金田一のような足で稼ぐタイプも、だいたいは探偵の考えはあまり述べられません。マーロウは、こう思った、こう感じた、こう考えた、というのがガンガン書かれていて、何故そういう行動をとったのかというのも書かれているのに、最後に犯人と話すところまで真相はハッキリとしません。見当はつきますが、それはポアロでも真賀田四季でも戸津川警部でも、読んでいてすんなり犯人やトリックが分かるときは分かるので、話し手による違いではないでしょう。知識の問題です。
で、御手洗さんは地の文でも会話でも「ぼく」で、マーロウは地の文では「私」で会話は「ぼく」「俺」「私」使い分けなので、状況の描写がより客観的に感じますが、肝心なところを出してない点でどっちも同じと思います。感情を語るぶん、マーロウのほうが問題を見えにくくしているかもしれません。謎だけを考えている過程を述べてあるほうが読み手は考えやすいでしょう。平気で途中で、考え違いをしていたとか言い出すのがズルイけど。
心理描写が多いゆえにマーロウは探偵の一人称なのかなと思います。トリックを主体にしようと思ってないから探偵に心情を語らせることが出来る。御手洗さんとマーロウは同じ探偵でもミステリとしてはジャンルが違うから比較するのも無理がありますが、謎を大事にするとどうしても探偵とは別の語り手が必要になってしまう。『ネジ式』は通常推理小説の終盤に凝縮されているはずの謎解き部分で全体が構成されている感じになっているように感じます。
名探偵コナンとか金田一少年は探偵視点ですが、ん? あれは……って読者に見せないので成り立つのでしょう。ズルイ。