探偵小説、あるいは都市を歩く
金曜日はワタリウム美術館の西欧思想一日大学の講演会に参加してきました。ボーナスが出たからと、同行した友人が夕飯をおごってくれまして、美味い魚を食いました。ちゃんと食事をするひとと出かけると美味いものが食えるのだなとしみじみ思いました。
彼氏は私と同じく、食べることにあまり執着していないひとなので、もうお昼だから食事しようかとかせっかくだから夕飯食べて帰ろうかということにはなりません。基準は常に「空腹かどうか」です。そして9時集合22時解散程度のデートの場合は一食もしないのが普通です。喫茶店に入るのもまれです。山登りとか5キロや10キロ歩いたときは食事しますがね。
食事することが目的のひとつに含まれている場合以外では、たいていの場合は食事は無いのです。二人とも並ぶくらいなら食べないという思想の持ち主だし、胃が痛いくらい空腹だから何か食べようと合意しても、手ごろなお店を探しているうちに空腹すぎてどうでもよくなってしまうので、結局食べない場合も多いのです。
この点を、「お似合いだね」と言うひとと「別のひと探したほうがいいよ」と言うひとといるのが面白い。
ま、それはさておき、探偵小説ですよ。第1回のタイトルは「探偵デュパンの敗北〜ニューヨークの美女〜」です。どこらへんが敗北かというと、『マリー・ロジェの謎』に関してですね。エドガー・アラン・ポーは、ニューヨークで起こった未解決の殺人事件を、舞台をパリに移して焼きなおす形で探偵デュパンに解決させています。これは、実際の事件も解いたという表現なのですが、雑誌に連載した3回の間に別の証言が出てきて論理が破綻しそうになってしまい、急遽数箇所を訂正して別の可能性を匂わしながらも一応の解答を事件に与える、という形にせざるを得ませんでした。
おかげで後半ではいきなり曖昧になり、明快な解決ではなくてモヤモヤだなーという感想を小学生の私も持ったわけです。私はその事情を知らなかったので、そうだったのかーと素直に思いましたが、先に評論を読んだことのある友人にはやや退屈だったようです。
気持ちはわかる。だって、途中から都市の話、全然出てこないんだもん。
『マリー・ロジェの謎』を読んだことの無いひとにもわかりやすい、平易な語り口調の、話し方が上手いとは思わないけど、わりと丁寧な感じの、悪くは無い講演でしたが、都市はどこへ行ったんだ。
私としては、後で聞いたら友人も、なぜ舞台をパリにしたのか、当時のニューヨークとパリの相違は何か、探偵小説を生み出した土壌、当時の探偵と都市、そのあたりが出てくるのではないかと楽しみにしていたのです。探偵小説は好きなので、同じく探偵を好きであるらしい講師の探偵語りを聞くのはそれはそれで面白かったのですが、都市というものと探偵と結びつけたところが興味深くて申し込んだわけでして、正直なところ、あらー……と思いました。
なかなか面白かったんですよ、話は。数箇所の訂正で破綻の無い話にしたんだからポーは天才だ、と講師は何回言っていたかなんて数えてませんが、うんうん好きなんだねポーが、それは分かったよと肩を叩きたくなるような、愛は感じました。しかし期待とはちょっと違った。帰りの東横線で友人とそんな話をし、この微妙なガッカリ感は「あるいは」に期待しすぎた我々の落ち度ではないかという結論を得ました。「あるいは」だから。あくまでも。メインは探偵小説だから。
次回何人脱落してるかね、と意地の悪い予想をしたところで電車は横浜へ着き、もう既に日付が変わっていたので友人には早口で暇を告げて、乗り換えの電車にダッシュしたのでした。
昨日と今日は1限から4限まで大学の講義でした。来週もほんとは授業なのですが、ママチャリレースがあるのでサボ……いや、自主的オンデマンド受講です。天気予報だとだいぶ過酷なレースが予想されるので、妹に買ってやったゴアテックスを奪う予定です。